登入第64話 凍結胚Cを産まないと約束すれば、私たちは全員助かります
七海が和解案へ署名すれば、Cは廃棄されず、灯の十五パーセントは減らず、私と朔也への告発も取り下げられる。患者財団をめぐる資産移転についても、旧取締役側は一部を適法な手続でやり直すことへ応じると書かれており、争いに関わる者の大半が、今より安全な場所へ移れる条件だった。
その安全を買う代金として求められているのは、七海がCを産まないと約束することだけだった。
「期限は書かれていませんね」
七海は、和解案を最初から読み直したあと、芙美へ尋ねた。声は落ち着いていたが、紙を押さえる親指の爪だけが、白くなるほど強く机へ触れていた。
「回答期限は明記されていません。ただ、旧取締役側からの連絡では、財団の暫定理事を選ぶ手続が始まる前に回答してほしいとのことです。時間を与えると書かず、急ぐ理由だけを伝えるやり方ですから、こちらから期限を確認する必要はありません」
「返事をしないまま置いておけば、灯ちゃんの株も、澪さんたちへの告発も不安定なままな
第88話 娘の未来を先に奪われた十九歳の少女は、「治療を止めないで」と言いました 十九歳の少女の名は、相原真帆といった。 生まれた直後に重い感染症を起こし、救命のためAURの緊急照合機能が使われている。当時の記録では、母親が長期経過観察へ同意したことになっていたが、署名欄へ添えられた説明書には、将来の妊娠や胚移植について一言も書かれていなかった。 真帆さんは幼い頃から、原因のはっきりしない免疫異常に苦しんでいた。季節の変わり目には高熱を出し、十代になってからは関節の痛みや不整脈も現れたという。国外の提携施設から届いた案内には、「出生時から保存されている本人由来の生体資源を用いた根本治療」と書かれていた。 渡航費も、滞在費も、治療費もAURが負担している。さらに治療へ協力すれば、帰国後の学費支援まで受けられる契約だった。「本人へ直接連絡するには、慎重な手続きが必要です」 芙美さんは、真帆さんの資料を机へ置きながら言った。「現在滞在している国の医療法では、成人患者への連絡を家族や第三者が妨げることはできません。ただし、こちらが患者情報を不正に得たと主張されれば、接触そのものを制限される可能性があります。まず現地の弁護士と患者支援団体を通し、独立した説明を受ける権利があることを伝えます」「そのあいだにも、薬は続くんですよね」「裁判所の保全命令と、国内で発行された同意撤回通知は送達済みです。施設側は、処置を一時停止したと回答しています。ただし、投薬まで完全に止まったかは確認できていません」 机の向こうでは、美月さんと奈緒さんが、真帆さんへ説明する資料の表現を見直していた。専門用語を減らし、何が事実で、何がまだ疑いの段階なのかを色分けしている。「『あなたは騙されています』と最初に書くのは、やめたほうがいいと思う」 奈緒さんが言った。「どうして? 実際、説明されていないんでしょう」 美月さんが赤いペンを持ったまま問い返す。「騙されていると言われると、自分が愚かだったと責められたように感じる人もいるから。私だったら、知らない相手から突然そ
第87話 娘を「未来の母体」に登録したのは、命を救った主治医でした 灯の出生記録が入力された小児循環器観察室は、その日のうちに封鎖された。 警備員が扉の前へ立ち、室内にある三台の端末は電源を落とさず、通信だけを切断された。真奈さんによれば、電源を切ると一時記録が消える可能性があるらしい。誰が何を入力したのかを確かめるため、病院の情報管理部門と外部の調査会社が入り、職員証の利用履歴、防犯映像、端末に接続された医療機器の記録まで保全することになった。 調査のあいだも、灯は同じ階の新生児集中治療室にいる。 候補者登録は停止され、外部から診療情報へ接続できない状態になっている。それでも、登録した人物が病院内にいると知ってから、看護師が保育器に近づくたび、私は名札を見るようになった。これまで灯を世話してくれた人まで疑っている自分が嫌だったが、信じようと努力するほど身体が強張った。「澪さん、授乳用のミルクを替えますね。先ほど説明した、脂肪分を調整したものです」「その情報は、院外へ送られませんか」 若い看護師は一瞬驚いたあと、私が何を恐れているのか気づいたらしく、ミルクの容器を持ったまま丁寧に答えた。「院内の栄養管理記録にだけ残ります。外部研究用の共有は停止されていますし、私の権限では送信できません。もし不安でしたら、入力画面を一緒に確認しますか」「ごめんなさい。あなたが悪いと思っているわけではないんです」「大丈夫です。私でも同じことを聞くと思います」 責められたわけでもないのに、その優しい返事がかえって苦しかった。病院には、灯のために働いてくれている人が大勢いる。たった一人の行為か、あるいは一つの仕組みのせいで、その全員を信用できなくなるのは嫌だった。 看護師が記録画面を見せてくれたので、私は送信先が院内だけになっていることを確かめた。そこまでしても心から安心できたわけではない。信頼とは、一度壊れたあと、設定画面のチェック欄一つで戻せるものではなかった。「確認してくれて、ありがとうございます」「こちらこそ、聞いてくださって助かります。何も言わずに不安な
第86話 娘を「未来の母体」から守るため、夫は父親になると署名しました「灯の名前を、いますぐ消してください」 私の声は自分で思っていたより低く、泣き声にも怒鳴り声にもならなかった。けれど、机の上に置いていた手が震え、爪が皮膚へ食い込んでいることには、朔也が指を開かせてくれるまで気づかなかった。「澪、手を傷つける」「私の手なんて、いまはどうでもいいの」「どうでもよくない。ただ、灯の件を止めるなと言っているわけではない。手を傷つけなくても、怒っていい」 朔也は私の掌に残った爪の跡を確かめ、それ以上は触れずに手を離した。以前なら、落ち着けと言ったかもしれない。けれど、娘が生まれた瞬間から未来の妊娠を予定されていた母親へ、落ち着くことを求めるほうがおかしいと分かっているのだろう。 候補者管理画面には、久瀬灯の名と出生日時、現在の入院先、診療識別番号まで表示されていた。移植予定は、早くても十数年以上先である。それでも、遠い未来だから安心できるはずがなかった。佐伯医師の計画は、私たちが今日拒否しても、灯が自分で選べる年齢になるまで待つつもりでいる。 しかも、それは待つという穏やかな言葉で呼べるものではない。 娘が成長し、妊娠できる身体になる日を、使用可能になる日として数えているだけだった。「削除は、いま行うべきではありません」 真奈さんが言った。 私は反射的に彼女を睨んだが、真奈さんは怯まず、画面の記録を別の保存領域へ複製しながら続けた。「灯ちゃんを候補者として残したいわけではありません。ここで元データを消すと、誰が、いつ、どの情報を使って登録したかという証拠まで失う可能性があります。まず管理権限を凍結し、候補者としての効力を停止したあと、証拠を保全した状態で登録そのものの無効を求めるべきです」「では、名前が残っているあいだ、向こうの計画も残るんですか」「表示と効力は別です。いまから実行権限を止めます。ただし、表示を消して安心した結果、別の番号で登録し直されるほうが危険です。残っている記録を、こちらが監視できる状態にしておいたほうがいい
第85話 私が拒めば、凍結胚は卵子提供者の身体へ戻される予定でした 早瀬七海さんへ電話を掛けたのは、私だった。 芙美さんは代理人から説明したほうがいいと言い、真壁さんも、候補者一覧の真正性を確認してから連絡すべきだと慎重な意見を述べた。二人の判断は正しかったと思う。それでも、自分の名前が母体候補として勝手に登録されていた経験を持つ私が、同じ目に遭っている七海さんのことを、本人が知らない場所で協議し続けるのは耐えられなかった。 電話は二度目の呼び出し音でつながった。『どうしたの。Cに何かあった?』 七海さんは挨拶より先に、凍結胚の状態を尋ねた。母親を名乗るつもりはないと言いながら、何かあれば気にせずにはいられない。その矛盾を、私はもう無責任だとは思わなかった。「Cは凍結されたままです。保存状態にも問題はありません。ただ、あなたに関係する新しい記録が見つかりました」『また私の卵子から何か作っていた、という話なら、驚ける自信がないわ。最近は、自分の身体について知るたび、他人の持ち物の取扱説明書を読まされている気分になるの』「移植先の記録です。私がCの移植を拒否した場合に備えて、代わりに妊娠を担わせる候補者が選ばれていました。その最初に、七海さんの名前があります」 電話の向こうから返事がなくなった。聞こえるのは、遠くを走る車の音と、衣服が擦れるかすかな音だけだった。「七海さん、いまどこにいますか。運転中ではありませんか」『家にいる。座っているから、そんな声を出さなくても大丈夫よ』「ごめんなさい」『謝るくらいなら、最初からもう少し上手に言って。まあ、どう言われても内容は変わらないけれど』 いつもの刺のある口調が戻ってきたものの、それで平気になったわけではないと分かった。私も驚いたときほど、どうでもいい部分の言葉遣いが気になることがある。相手の説明の粗を探しているあいだは、本当に怖いものへ向き合わずに済むからだ。『それで、あなたたちは私に何をさせたいの? Cは私の卵子から作られたから、あなたが嫌なら私が産むべきだとでも言うの?』
第84話 亡き夫の求婚状には、「澪をCの母にしない」と書かれていました 冬真さんの手紙を開かなかった夜、私はほとんど眠れなかった。 読まないと決めたのは自分なのに、目を閉じるたび、封印された文書の冒頭だけが勝手に頭へ浮かんだ。彼は父に何を訴え、何を約束して私との結婚を認めさせようとしたのか。研究対象として近づいたことを、どんな言葉で愛情へ言い換えたのか。あるいは、本当に私を愛していたのだと、死んだ人にしか言えない美しい文章で主張しているのかもしれない。 隣の寝室にいる朔也も起きているらしく、午前二時を過ぎても床を踏む音や、水道の蛇口をひねる音が聞こえた。仮住まいの部屋は広くないのに、私たちは別々の寝室を使っている。出産後の私が眠りやすいようにという理由だったが、本当は、どちらも相手へどこまで近づけばいいのか分からないだけなのだと思う。 明け方近くになって、私は寝室の扉を開けた。 居間では、朔也がソファに座り、消音したテレビに映る天気予報を眺めていた。手には湯気の消えたマグカップがあり、テーブルには開封したものの一枚も減っていないクラッカーが置かれている。「眠れないなら、声を掛けてくれればよかったのに」「澪こそ。俺は、水を飲みに起きただけだ」「午前二時からずっと?」「喉が渇きやすい夜だった」「そんな言い訳で患者を納得させていたなら、資格停止が解けても医療関係の仕事へ戻さないほうがいいわね」 私が隣へ座ると、朔也はマグカップを持ったまま少し場所を空けた。逃げたというほどではなく、私が横になりたければ足を伸ばせる程度の距離だった。そういう気遣いをされると、こちらから近づきたくなるのだから、人の心は面倒である。「冬真さんの手紙を、読まないと決めたことを後悔しているわけではないの。ただ、読まないあいだも中身を考えてしまうなら、結局、あの人に時間を使わされているような気がして腹が立つのよ」「兄さんなら、死んだあとまで澪を悩ませられることを喜びそうだ」「そんなに性格が悪かったかしら」「悪かった。本人は、相手に考える機会を与えているつもりだ
第83話 凍結胚を作らせた父は、私を救うために他人の子を作っていました 父の名が表示された封印記録は、独立代理人が選任されるまで開けなかった。 待たされたのは三日間だけだったが、その三日は、これまで経験したどの三日とも時間の流れ方が違っていた。灯の呼吸状態は安定し、心拍の乱れも一度あっただけで、外部ペーシング装置が作動することはなかった。喜ぶべき経過なのに、保育器の前に座っていると、あの子の小さな身体の中にあるものまで、父や冬真さんがずっと以前から計算していたのではないかという疑いが湧いてくる。「おじいちゃんが始めたことらしいよ」 保育器の窓から手を入れ、灯の掌へ人差し指を触れさせると、頼りない力で握り返された。娘に話して聞かせるには、あまりにも夢のない家族の昔話だった。「でも、お母さんにもまだよく分からないの。分からないことを分かったふりで教えると、うちではろくなことにならないみたいだから、あなたにはちゃんと調べてから話すね」「新生児に話す内容としては、かなり堅いな」 背後から聞こえた朔也の声に振り向くと、彼は看護師の確認を受けながら、貸し出し用のガウンを着ていた。電子資格の利用停止は解除されていないため、今日も職員の立ち会いがなければ灯のそばへ来られない。それでも、最初の頃のように苛立ちを態度へ出すことはなくなり、本人確認を一つずつ受け入れている。「赤ちゃんだから何も分からないと思って、都合のいいことだけ話す大人にはなりたくないの」「分からないなら、せめて楽しい話をしてやれ。昨日、俺がおむつを替えたら、看護師に前後が逆だと指摘されたこととか」「それは灯より、将来のあなたのために記録しておいたほうがいいわね。育児に協力したと言い張ったときの反証資料になるから」「すでに看護記録へ残されているかもしれない。今日の担当者は笑いを堪えるのが下手だった」 朔也が保育器の反対側へ回ると、灯は私の指を握ったまま、そちらへ顔を動かそうとした。声を聞き分けているのか、偶然なのかは分からない。それでも朔也は嬉しそうに目元を緩め、周囲に人がいることを思い出したように、すぐ真面目な顔へ戻った。